@article{oai:ipu.repo.nii.ac.jp:00000763, author = {小川, 隆章 and OGAWA, Takaaki}, journal = {環太平洋大学研究紀要, BULLETIN OF INTERNATIONAL PACIFIC UNIVERSITY}, month = {Mar}, note = {文禄・慶長の役(壬辰倭乱)における稷山の戦いに関して韓国の複数の歴史教科書が「朝鮮・明の連合軍が天安近くの稷山において日本軍に大勝利をおさめ,敗走した日本軍は朝鮮南岸に逃げて倭城に立てこもった…」と記述している。この記述には二重の誤りがあることを指摘した。諸文献を精査すると,①稷山で戦ったのは日本軍と明軍である,②明軍と日本軍の戦いは激戦であったが,勝敗の決着はつかなかった,の2点を確認した。日本軍が漢城へ侵攻せず,南岸まで撤収して倭城を築いて守将を定めて,残りの武将たちを帰国させたのは稷山の戦いで敗戦したためではなく,当初からの豊臣秀吉の指示に基づくものだったこと,を付け加えた。}, pages = {207--213}, title = {文禄・慶長の役における稷山の戦いに関する韓国歴史教科書の記述の誤りについて}, volume = {18}, year = {2021}, yomi = {オガワ, タカアキ} }